2018年1月5日金曜日

親父との別れ。

 お正月も明けとっても楽しかった五条の田舎からも帰った後、三日の早朝に携帯が鳴る。
  まだ5時過ぎだったと思う。そろそろお散歩にと、ユウも起こしていた。嫌な予感だけどやはりそうだった。

 親父が夜半過ぎに亡くなったと。
雄一の闘病が始まり、毎月の様に五条のお寺にも祈願に。その帰りや行きには親父の入所する養護施設に良く立ち寄っていた。まだその頃は痴呆が進んではいたが僕で有る事も解ってはいた様だった。
 2011年10月のブログです → お百度参りと元気な親父。
それから何度か施設も変わりここ数年は殆ど寝た切りで家族の事も解らない。幸せとは何だろう・・と考えた事も有った。

 自分の子供なら、親のエゴかも知れないが手足が無くなっても生きていて欲しいと願う。でも精一杯生きたなら無理な延命治療はその人の為に良いのか?と疑問はいつも感じる。でも答えは出て来ないね。

 でも親父は去年で94歳に成った。身体は本当に丈夫だった。小さい頃に一度だけ熱を出して母親に薬を飲まされている事を覚えている。それだけだ。とっても真面目で本当に良く働いていた。中学の頃の反抗期、知ったかぶりで偉そうに逆らってぶたれた事は有る。でもそれだけだ。
 まだ小さい頃、僕は熱を出した。それも夕方から夜に。かなりの熱だったんだろうね。母親が心配して親父に病院へと願う。その頃は車もバイクも何もない。一日に数本のバスもとっくに無い。一番近い個人病院は4,5㌔ぐらいは有る。
 夜の月明かりも有った様に思う。親父はね、僕を肩車して田舎の夜道をその病院まで歩いて連れて行ってくれたんだよ。肩車をしてもらって、僕はそれがとっても嬉しくて自分が高熱を出している事すら忘れていた。病院へ着く頃にはもうとっても元気に成っていたよ。小さな頃のこの親父との夜道の肩車はとっても嬉しくてずっと記憶に鮮明に残っている。こんな事が子供の人格の元に成るのだろう。

 野球も止めて目標を失っていた頃の高校の最後の夏休みに家出同然で誰にも言わずに日本一周のバイクの旅に出た。一月経って帰って来たら、親父は笑って言ったよ。「もう暫く単車(バイク)乗らんでもいいやろ。」と。

  三日は枕務め、四日はお通夜、五日は告別式で、そんな素晴らしい親父との別れでした。もう94歳だから大往生と言っても良いと思う。沢山集まって頂いた田舎の皆さん、親戚の人達との会話でも冗談も言いながら笑い声も聞こえる。お葬式は悲しいけれども本来なら人生を全うして、皆に笑顔で送ってもらうのが一番だろうね。それが一番だと思う。


  でもやっぱり別れは辛い。悲しい。
最後の別れに、ありがとう父ちゃん、と自分の持っていたハンカチを入れたよ。これからも見守っていて欲しい。モモもマーキュリーもとっても元気。可愛いユウも家族になった。だからしっかり生きて行きたい。雄一の分も!

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